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最新更新日 2013.7.7
写真ノート第三部
中川繁夫:著



写真ノート 第三部-2-


第三部 2013 7~12

20130510
1975年の春、わたくし、大学で卒業証書をもらいます。1968年入学だから、7年間在学したことになります。この年に、ニコンのカメラニコマートを買いました。が、そこに行きつく前段を、書き記しておきたいと思うんです。おもえば高校生のときは音楽家に、それから文学に目覚め、小説家になりたいなぁ、なんて思っていました。写真に興味を持つなんて、思いもかけなかった。人生って、どこでどう変わるのかわからない。高校を卒業直前に、進学組から就職組に変更、そこで紹介された就職先が、十字屋楽器店、京都ではいちばん大きな楽器店、技術部配属、ってことはピアノの調律師を職業として目指すことになる予定で就職したんです。でも、そこは2年で辞めました。

目指すは大学へ、ようやく入学金も貯まったし、いざ受験、恥ずかしいけど、ここに書いておくけど、早稲田演劇、同志社美学、立命館文学、この三つでしたけど、その当時の立命館の二部文学部に入学できました。ちょうど入学式の1968年4月、この年は、各大学が全共闘運動のさなかにありました。わたくし、入学したとき高校の後輩が大学の先輩になっていて、つまり三年遅れの大学生となっておりました。たぶん、一年一年の違いが、その後の人生に大きく影響してきたように思います。文学を、小説書きを目指していました。

1968年は京都で大学生していましたが、翌年の春ごろだったか、東京の出版社に就職が決まって、大学をいちおう休学にして、東京へと赴いたのでした。京都から東京へ、1968年から1970年にかけて、わたくしの身も心も揺れ動いたように思います。1969年10月21日、これは国際反戦デーでしたか、東京中が緊張した日、この日、わたくし、ベトナムに平和を市民連合、俗にいう、べ平連、この主催によるデモに参加して、その後、京都に戻ってきたんです。夢破れて山河あり、わたくしの挫折、夢破れて京都というふるさとへ戻ってきたということです。そのまま、東京に残っていたら、なんてことは考えないようにして、いくつかのアルバイトを経て、郵便局のアルバイトにつきました。1969年の年末からお正月にかけて、わたくし、郵便配達をしていました。

アルバイトでお世話になった郵便局で、1970年4月から、貯金の窓口に配属してもらい、およそ25年間、郵便貯金の仕事に従事します。同時に結婚式を挙げ、所帯をもちます。なんだったんでしょうね、あのあと数年の空白、また大学へ通うようになり、子供が生まれてきて、カメラを買おうかなんて思いだして、上田カメラの兄ちゃんに勧められてニコマートを買ったんです。これが1975年のこと、自分の子供を写し始めた、小市民的生活、プチブルって言って、軽蔑してた生活、まあ、複雑な気持ちでしたけど、甘味な日々だったようにも、思っていたのを、思い出します。

カメラを買って、そのうちモデル撮影会ってのに行って、写真クラブに入会して、というあたりのことは前段で書いているので、ここでつなげて、写真という「こと」に興味を持ちはじめて、ひとりでカメラ雑誌を買い求め、古本屋さんでカメラ雑誌のバックナンバーを買いだして、熱心に読むようになって、情報の窓口はカメラ雑誌、アサヒカメラ、日本カメラ、カメラ毎日、この三誌、いわゆるアマチュアカメラマンが愛読する本です。写真ワークショップ、写真学校のことが雑誌に載っていました。興味を持ちました。東京へ行きたいと思いましたが、その勇気はありませんでした。


20130516
先週末、5月11日から東京都写真美術館で「日本写真の1968」と題された展覧会が開催されてています。わたくしにも入場の招待券が送られてきていますが、今となっては東京という遠くの出来事なので、見に行けません。題された内容、1968年の写真と世の中の出来事には、わたくしにも多大な興味の中味なので、ここにメモとして書き残しておこうと思うんです。

1968年当時は、わたくし、写真に関しては全くの興味の埒外、むしろ文学、小説、それを書くための手段として大学生になった年です。後になって、写真のムーブメントに「プロヴォーク」があったことを知りますが、同人誌、文学領域では、わたくしとて参加していた同人誌、それの写真領域、という印象でした。1968年のわたくしについては、前回にも少し触れているんですが、わたくしは、その渦中、真っ只中にいたけれど。ということになると思うんです。正味には1969年の2月だったか3月だったかには、本郷にある出版社の社員としておりました。

東京大学の入試が中止になった年、東京大学前にあった出版社、有信堂の社員としてあったわたくし。目の前の光景、安田講堂はまだ封鎖解除のあと整備がされていなくて、がれきのようだったと記憶しています。それにしても、そびえたつ安田講堂、それを背景に記念写真を撮ってもらったけど、その写真は、もう手元には見つかりません。なんだったんでしょうね、1968年からの数年間。たしかに、わたくしにとっては、文学をすてて、写真にのめりこんで、釜ヶ崎の三角公園に到着したときには、あれから10年、という言葉が頭のなかをよぎっていました。釜ヶ崎の写真を撮るようになった原点に、1968年の体験が深く関係してると思えるんです。

話は変わって、木村伊兵衛賞の第一回の受賞者が北井一夫さん、作品名は「村へ」1975年です。石内都さんは1978年「アパートメント」により第四回の受賞者です。わたくし、当時、リアルタイムで、この賞について、とっても気になっておりました。ニコマートを買って、アサヒカメラを買って、技術解説記事を読むことが主でしたが、「村へ」の記事は、わたくし、写真の何か未知の世界があるようにも思えて、かなり心情的に共感しておりました。後になって、北井一夫さんが日大の闘争記録を写真集にしているって知ったりしますが、興味あっても解説はできませんが、なにかしら惹かれていました。

全日本写真連盟の会員になって、京都支部に所属して、シュピーゲル写真家協会の流れを組む光影会に所属していたそのころ、東京からアサヒカメラの関係者が「村へ」の批評講演をしに朝日新聞社の京都支局へやってこられたんです。北井一夫が来るべきところ、なんて挨拶のあと、スライドと解説が行なわれていきました。わたくし、思い出します、とっても感動して、その解説に聴き入っていたと思います。その講演がおわって講師が帰られた後、全日写連のトップに近い役員が、「あんな写真のどこがええねん」みたいな発言があったんです。唖然、わたくし、悲しかった、虚しかった、もう居てられなかった、この場はわたくしの居るべきと処ではない、決別、それしかありませんでした。

それまであったわたくしの、ほんの三年ほどの経験でしたが、写真の世界と決別して「都市へ」。もちろんテーマの立て方は「村へ」の逆、そこから始まるわたくしの写真取材でした。1977年の秋ごろから「大阪」へ撮影現場を求めていきます。1978年夏前に、取材が行き詰まり、いったん退散、夏には「私写真論」だったかのタイトルで文章を書いていきました。そうして9月、ふたたび写真撮影を開始、「大阪日記-釜ヶ崎取材メモ-」とい題された文章を、写真作業と平行して書いていくことになるのでした。

石内都さんが「アパートメント」で木村伊兵衛賞を受賞したと知ったのは、思い出します、釜ヶ崎の労働者が結核を患って奈良県の病院に入院しているというので、そこへ取材訪問しようとしていたときでした。わたくしとしては、それらの写真の世界を突きぬけて、釜ヶ崎に来てしまったという気持ちがあり、孤立無援的な感覚のなか、その受賞発表については、近いようであり、もう遠い世界のことのようにも、距離感が計れないところにいたようにも思えます。


20130519
写真の歴史、日本の写真史。最近、日本の写真史に、なにがあって、どうなったのか、それを考えています。名取洋之助を最初に取り上げたのは、戦中戦後の日本写真にとって、ドキュメント手法の基本を持ち込んだと思えるからです。名取を軸に、木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄ときて、そのあと世代の写真家として、東松、細江、奈良原、川田とかの名前があがってきます。

一方で関西の写真史を、おもに体験談として書き始めて半年、あまり精力的には進めていない状態です。これも最近には、シュピーゲル写真家協会の活動が気になってきています。これは関西を語る中間点で、その前には、作家では安井仲治とか、クラブでは浪華写真倶楽部とか丹平写真倶楽部とか、そんな時代のことが気になってきています。直近には、その流れの中にある光影会写真倶楽部のこと。わたくしが、1976年から数年間所属していた会だからです。

どうなんでしょう、アマチュアカメラクラブといわれる集合体のこと。インディペンデント系の集合体のこと。この二つの集合体を、どのように融合させて、大きな流れの再編を目論めるか、でしょうか。もちろん、こういう発想自体、どうなのかという疑問も、わたくしの内部にはあるんですけど、無視できないことでもあるんです。そんなことは、生きてるうえでは、本質、あんまり関係ないよ、と言ってしまえばそれまでのことですが、このこと、写真ということにこだわります。

昨日はその光影会の例会日、ウイングス京都の会議室を借りて約三時間、写真を見せ合いっこするんですけど、その場に大八木さんが、昔の資料を持ってこられた。1966年京都シュピーゲルの会報、和暦でいえば昭和41年ですね。もちろん、どのような作品が発表されていたかというのが本題で、会運営のことは主要なテーマではないんですが、作品論に及ぶための系譜をたどっているわけです。作品を作っていくためには、集合体ってけっこう重要な役割をはたしていて、作品の傾向が、写真史の中身になると思っています。あんまり拡散しないようにして、まとめていきたいとは思うんですが、どうも拡大傾向にあって、尻切れトンボになってしまう。反省しないとあかんですね。


20130523
今日は中山岩太について、ブログに記事化しました。昨日は安井仲治について記事にしました。写真の歴史を書いていこうと思って、これは全くのメモなし、あたまのなかの構想と、パソコンワープロを使って、ネットで検索しながら、書いていこうと思って、試みているんです。東京と京阪神の二極を、1930年ごろからひも解いていこうかと思っているんです。とはいっても、詳しい評論形式と内容ではなくて、ほんの入門レベルで、ガイダンスに使えるレベルで。

昨年夏から縁あって、逆瀬川に移転している宝塚メディア図書館へ、毎週金曜日に行っています。そこには、かって手元にあった写真集などの資料があり、その後に増えた資料もあって、宝の山に思えてきて、なんとかデジカメに記録しておこうと思いだしたんです。気力がいる作業だし、だいぶん躊躇していたんですけど、最近、写真集をひろげて、写真集であることがわかるようにして、写真にとっていきます。

だいたい、これまでの経験でおおきな枠組みはわかっているつもりなので、その枠を具体的な文と画像で組んでいきたいと考えているんです。だいたい構想だけで、少し手がけただけで終わってしまうことが多いんですけど、ぶっつけ本番、浮遊したままで、少しまとめていくつもりをしています。具体的には、ブログに、名前ごとに、ファイルしていこうと思って、始めたばかりです。

わたくしが、しらべものをするのに、ヤフーの検索を使っているんですが、この調子、わたくしが写真史、人名別の記事に、数枚の図録と簡単な文章をつけて、見て読んだ人が、興味でその後を調べるなら、ネット検索を使ってもらって、その人なりの知識を身につけられたらよろしいかと。そんなふうに考えているところです。一冊の本を読んだら、全てが分かるとか、参考文献にとか、いたせりつくせり方式ではなくて、各人が各人なりに、自分のあたまのなかをつくっていく、そんな写真の歴史、入門編にしたいと思っているんです。

なにより、わたくし自身が興味をもったことに対して、わたくし自身が調べていくという、わたくしにとってあんまりやったことがない方法で、試してみたい。ネット時代の勉強方法とでもいえばいいかも。図書館へ行かなくても知識を得ることができるネット環境だと思うんです。わたくしの部屋には、たくさんの書籍があるんですけど、そんなのが不要な時代になっているんだと思います。パソコンの向こうに、どでかい図書館がある、図書館・美術館、まるごと目の前のパソコンの向こうにある、そんな時代感覚です。


20130525
かって生きられていた写真家、おもに関西で活動をされていた写真家、いつも話題になっていた写真家たちの名前が、わたくしの前に現われています。写真の歴史、作家別という括りで、資料化していたんです。宝塚メディア図書館で、かって目にしていた写真集だとかを、引っ張り出して、カメラに収め、先ほど整理したところです。これからも、引き続き資料化していくつもりをしています。

たとえば岩宮武二という人、この人の名前は、その当時、ことあるごとに聞いた名前です。わたくし、会ったことありません。見たことがありません。見るべく席が、多分あったと思うけど、見かけたことがありません。岩宮さんは、1976年当時、関西のドン、そんな存在だったのではなかったか。大阪芸大の教授、関西二科会の会長、それからJPSの理事とか、なにかといえば岩宮、いわみや、というのを聞いたものです。わたくしが立ちまわれた写真界の範囲ですが、有名人でした。戦前の丹平写真倶楽部に名前が連なっているし、奈良の入江泰吉さんとともに「大阪光芸倶楽部」ってのを立ち上げる。その立場におられた、いろいろないきさつは、わかりませんが、有名人です。

京都で気になる人、山本健三って名前の写真家がいます。その当時、京都を紹介する雑誌とかポスターとかの写真は、この山本健三ってクレジットが入っていました。どんな人なんやろ、興味はありましたが、お目にかかる機会はありませんでした。京都にいて、存じ上げた名前でいうなら、棚橋紫水さん、堀内初太郎さんなんかは大阪組です。京都組では、和田静香さん、浅野喜一さん、大道治一さん、その他いろいろ、機会があれば名前を出すことにして、先輩たちです。わたくし、反発していて、そこから抜け出ていこうと思って、1982年には、すっかり人的な関係を断ってしまうんです。しいていば達さんとは、何度かお目にかかった。

ながらくそんな場所から離れて、なのに写真の関係でいままできているのんですが、最近、わたくしの活動の原点を探っていくなかで、アマチュア写真倶楽部として、大きな流れをつくっていた本流のそばにいたことを、見つめ返すことが必要、そのように思えてきているんです。なにか、人間の本性みたいな、帰属意識ってところでしょうか。もちろん、写真も名前も、文献には残っていなくて、写真を愛好している人たちもたくさんいらっしゃるわけで、どないしはるんかなぁ、なんて思っているところです。

突飛もなく木村勝正って名前が出てきます。丹平写真倶楽部、京都丹平、シュピーゲル写真家協会、京都シュピーゲル。木村勝正さんにあっては、このような写真作家グループに名前が出てきます。いま、わたくしの、部屋にある引き伸ばし機、使ってないけど部屋にあるオメガの引き伸ばし機、これ、木村勝正さんが使っていたものらしい。わたくしが、京都シュピーゲル改称って書いてあった「光影会」に入ったときには、木村勝正さんはお亡くなりになっていて、達栄作さんが二代目の会長でした。思い出します、わたくしと同い年の田村修二さんが、木村勝正さんのはなしを良くしていました。木村さんがいうには、写真は音楽みたいなもの、わたくしの記憶にこの言葉が深く刻まれております。

そうかも知れない、写真は音楽、そうかも知れない。そうかも知れないけど、わたくしは、当時、そうは思わなかった、むしろ文学、音楽とゆうより文学ではないか、と思ったように思えます。田村さんとは、いろいろ話をした唯一の友、彼のセンスには敬服していて、わたくしの釜ヶ崎より、絵が美しくって、まさに関西風写真そのもの、わたくしには、とうてい真似のできない写真をつくる人でした。まあ、どっぷり、光影会を軸にして、写真の世界を知っていくわけです。それから30年が経って、なにかのご縁でいまその光影会の例会に顔を出しているようになっている。写真の中身がどうこう、ではなくて、人つながり、という原点に戻ってきているような気がしています。でも、なぜ、人間、集団をつくりたがる、組織をつくりたがる、作ってしまうのでしょうか、そのことが、いまのわたくしには、回答がでません。


最近、カメラを携えて出かけても、シャッターを切らないことが多くなった。少しの散歩なら、カメラを持たないで出かける、ということもままあります。いまさら、写真を撮ってなにするん?、なんてこと思ってしまうんですね。そうこうしているうちに、かって所属していたカメラクラブ、光影会の例会と撮影会に参加するようになっています。何時の頃だったか、あれは1978年ごろだったか、当時、関西写壇といわれていた環境を捨てて、街へ出た。いきついた先が釜ヶ崎だったわけで、そこに滞在することになった。

あれから三十数年が過ぎた今、最近、関西の写真の歴史的背景を探るようになって、あらためてその当時のことが思い出されて、いまにつなげているんです。自分にとって、写真行為とは、何を意味するのか。たしかにあのころ真剣に考えていたように思えます。狭い了見で、物事をとらえていることもわからないまま、こうあるべきだ、なんて思って表現していたように思えます。ぐるっとまわってきた感じで、いま、昔知り合った人たちと交わる、けっきょくなんやかやゆうても、ひととひととの関係になる、このように思えています。

たしかに写真の持つ意味は、現存社会において、告発という契機を持っている。持っていることがドキュメンタリーのベースだ、とあらためて思ってみたり。でもそれは職業として、写真を使って世の中を変えようとする行為になるわけで、そんなにたやすく行為できるわけではないんです。カメラを持った立場ということで、現実にリンクし、現実を直視し、現実を変容させる。このように考えて行動してきたこともあったけれど、というのが今の心境です。

人と人との関係に、カメラと写真が介在する関係。まあ、自分を表現する、コミュニケーションツールとして、写真を撮り、見せる。このことなんですが、思うほどに反応がないから、自分としては面白くない。何してるこっちゃ、ということになる。まあ、撮影会なるものに連れていってもらって、日帰りバス旅行みたいなノリで参加させてもらって、さて、昼食は何が食べれるのか、とかの興味ですね。ひとと一緒にいるということは、安心感につながります。あまり気をつかわなくてもいいから、気楽です。カメラと写真が、こういう立場で存在しても、それはそれなりにいいのではないか、と思える最近です。