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最新更新日 2013.12.4
写真ノート第三部
中川繁夫:著



写真ノート 第三部-3-


第三部 2013 13~20

-13- 20130703
写真のことを、静止画と呼べばいいのかと、ちょっと迷ってしまう昨今です。カメラ機材側からいえば動画を撮ることと静止画を撮ることが同じカメラで出来るから、静止画とそれが連続したまとまりを動画と呼べばいいのだろう。ぼくなんかは「写真」という字面と呼び名、長年親しんできたから、この写真という字を見て、また、しゃしんと発音して、そこからわきあがるイメージ、心情ってものが、やっぱり静止画というイメージではないなぁ、と思う。

では、いったい、写真とはなんぞや?!、という問題にぶつかってしまう。物質としての写真ではなくて、その中身というか、現わされた表面の中身が、つまり意味するものを捉えようとするときにぶつかる問題です。なになに、そんな謎めいた禅問答みたいな問いかけじゃなくて、単純に感じればいいのだ。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。報道に使う写真なんて、現場が写っていて、説明されればわかる類の表層。そもそも、こんなことをぐだぐだと言っていること自体がナンセンスなのかも知れない。

かってあったようにみえた価値観が、いまや変化していて、ぼくなんかには理解不能なのかも知れない。このようにも思えて、自問してみるけれど、その写真の価値っていうものを導き出す式は、昔のままだからやっぱり通用しないのかも、なんて思ったり。写真学校のカリキュラムでいろんなことお話するけれど、はたして、それで時代とともにあるんだろうかと、思ってしまうと、しゃべれない。自分は自分でしかなくて、自分流の理解の仕方しかできないから、世代がちがうと、たぶん理解の方法がちがう、と経験から導くから、もう自分は化石だ、なんて認定してあげた方がいいのかも知れない。

でもそう認めることは、自分として自分を否定することだから、それは寂しすぎてできないから、認めたくない。こんなジレンマにさいなまれながら、67才のいまを迎えているわけだ。新しい企画なんてでてこない。新しい作品テーマなんてでてこない。ちょっと、どうしたらいいのか、困ったものだ。

-14- 20130711
1984年3月、写真の現在'84展を開催したメンバーの一人として、その当時の記憶をたどって、書いておきたいと思います。個別な名前が出てくるかもしれないけれど、失礼なことを書いたとしたら、ごめんなさい。これまで、あんまり個別の名前が出ないようにと配慮してきたんですけど、どうもそれではわかりにくい。決して悪口を述べる気持ちはさらさらなくて、むしろ共に歩んだという気持ちの方が、強くて、褒めたたえたい。これが最近のぼくの心情だから、これからは、個別の名前も書いて、残していきたいと思うんです。記憶違い、解釈違いということもあるから、もしそうであれば、訂正していきたいと思います。

ぼくの写真人生で、知りあって、知っていて、すでにお亡くなりになっている人のことを書いたり、しゃべったりすることがあります。お亡くなりになった方からは、そんなんじゃないよ、なんて反論がないことを前提に、書いたりしゃべったりしています。でも、まだ巷で活動されていて、交流があった方については、やはり書きづらい。面識がなくて作品だけ知ってるという人の評論は、それなりに出来る。ちなみにぼくの気になる知った人で、お亡くなりになっている方、名前をあげれば、数人です。ぼくより若い人では平木収さん、同年齢では西井一夫さん、先輩では達栄作さん、山村国夫さん、東松照明さん。

こんな前置きをしておいて、1980年から1984年ごろの写真に関する記憶を、書きとどめていきたいと思う。あっち行ったりこっち来たり、紆余曲折しながら、記憶を記憶のままに、書いていこうと思う。ちょっと待った、その記憶に批評を加えて、ということです。気になることといえば、中平卓馬って人物。1977年頃だったか、写真評論に興味を持ち出したころ、京都書院の書棚に「なぜ、植物図鑑か」という本があった。これは、かなりのレベルで、ぼくは感化されたようにも思います。いま、ぼくがシリーズしている「食物図鑑」なんて明らかにこの影響です。1979年8月に釜ヶ崎の三角公園で青空写真展を行ないますが、それの原形は中平さんのパリビエンナーレでの試み、それからの影響です。

写真に興味を持ち、ぼくがいた関西の写真現場、写真倶楽部とか二科会とか全日本写真連盟とかの世界に疑問を抱きだすきっかけは、1976年だったかに東京で開かれていた「ワークショップ写真学校」のニュースです。カメラ毎日に載っていたと思うんですけど、ワークショップ。それから自主ギャラリーってのが作られる。PUTとかCAMPとか。なにか遠い処で起こっているというより近いところで起こっている、そんな感覚でした。ぼく自身としては、1969年の2月ごろからその年の10.21の数日後まで東京は本郷の有信堂という出版社に勤めていたから、かなり身近に感じていたのかも知れません。すでに結婚していて、子供もいたから、それに参入するなんて出来ないと思っていた。

ニコンF2カメラを携えて、大阪の街に立ったのは1977年秋、このころには、まだ決別はしていなかったけど、ぼくのまわりの環境に、違和感を覚えていたように思います。東京からの情報、カメラ雑誌からの情報ですけれど、ぼくなんかそれに影響されて、感化されていたんじゃないでしょうか。東京で起こっていることを情報交換する話相手は、京都にはいません。雑誌の月例コンテストの話題、ニコンのコンテストの話題、だれが入選したとか、はたまた、どんな機材を使っているとか、そんな話には、ぼくは対応できなかったんです。なんなんでしょうね、ぼくはまったく写真関係者からは遠くへ、ひとりで反乱すべく大阪へ、と赴いたのでした。なんか、こんなこと書いてると、自分を美化しているように思えますね。

-15- 2013.7.30
1970年代から80年代にかけて、佐藤元洋というひとがCOPEっていう雑誌を発行しておられた。どこでどうして知りあったのか、いま、記憶がないんですが、かなりいろいろ、意見交換をした記憶があります。ぼくと同じくらいの年齢だったかと思うんですが、がんで亡くなられたとの話を、飯沢さんから聞いたのが、かれこれ10年以上も前になると思っています。かなりあいまいなことですが、ぼくとしては、あの風貌、お顔など、よみがえってきます。

新宿区荒木町3駒ビル2Fと、住所にはあって、そこへ何度か訪問させていただきました。ギャラリーを作っておられたけれど、作品を発表する作家が、いま思うと、敬遠されていたみたいで、写真展は佐藤さんの写真展があっただけ、との記憶です。この佐藤元洋さん、太陽賞の候補にあがっていたと思うんですけど、この太陽賞って、あの荒木さんが「さっちん」で受賞された賞。佐藤元洋さんは、べ平連のデモの写真を撮って発表されていました。

ミニコミ誌でCOPE、そうそう、思い出してきました、ぼくが映像情報を発行していて、新宿御苑の近くにあった模索舎(ミニコミ誌専門に扱ていたお店)に置いてもらっていたことが、知りあった発端だったかも。写真の情報誌として、個人誌として発行していた東京のCOPE,それに京都の映像情報、この二誌がありました。合同で同人誌的に発行された東京の写真装置、大阪のオンザシーン。1980年代の初めには、この個人誌二誌、同人誌二誌、がありました。そんな関係で、佐藤元洋さんと知りあいになったんですが、どちらから先に連絡を入れたのか、それはわかりません。が、たぶん、佐藤さんの方から連絡があったんだと思います。

言葉を駆使して論を語る、とでもいえばいいのでしょうか、いまCOPEを開いてみると、写真と文章が載っています。個人誌だから佐藤さんの写真と文章。印刷機まで所有しておられたようで、自分で刷られた。そういえば、ぼくだって、自分で刷りに行った。ひとりでは刷れなかったから、そうそう、親子劇場の事務所で、軽オフ印刷機で、刷ってもらって、ホッチキス製本して、100部限定発行していましたね。そんな関係で、ぼくの釜ヶ崎の写真を、写真集にしないかといわれて、そのつもりになって、作業をかさねていった記憶があります。結局、出版しなかったんですが、少し技術的なことで、ぼくの手に負えなかったんです。

いまぼくの手元に、COPEのバックナンバーがあります。まだ捨てずに置いてあります。写真図書館へも行ってないのは、出版社での発行ではなかったからかも知れません。チラシ、パンフレットの類で、1992年に開館する写真図書館のリストには入れてなかった。ちなみに映像情報も入れてないけど、写真装置は入れてあります。写真図書館は、現在、この6月から、一般社団法人宝塚メディア図書館として、引き継がれています。

COPEと映像情報の資料写真を載せてみましたが、COPEは1974年発行、映像情報は1984年発行、そこには10年間の時間軸があるんですね。ということは、COPEは写真装置とかオンザシーンと同時代というより、地平と同時代ですね。なんかしら、確定事項を確定事項として予定調和的に書いてなくて、書きながら発見していくといったほうがよさそうですね、この写真ノート(3)の記事。佐藤元洋さん、懐かしいですね、お会いしたことを忘れていません。

-16- 20130829
ネット社会になって、バーチャルな領域を生きるようになって、現実のリアリティが薄れてきて、まるで夢の中を徘徊しているような感覚で、でも、お腹が空くから、食べ物を口に入れ、美味しいと思う感覚も、まるでバーチャルな感じで、味わってしまう。なんだか、へんな感じの世の中に思えて仕方がない。まあ、へんな感じに思えるっていうことは、へんでない感じってのがあると思うので、へんでない感じを追求してみようかな。

変であると思うか変でないと思うか、いずれにしてもそれに先立つイメージがあるわけで、変でないイメージを言葉で表して見たいと思う。まあ、人が生きるなかで、社会の枠組みのなかで満足感を得られる生活であるかどうか。そういうイメージを写真という静止画で提供されてきます。最近なら主流は映像という動画ですかね。美しい生活、満足な家庭生活、ハッピーライフ。そのためにはそこそこの収入があって、収入が担保されていて、これは、持ち家であったり、3ナンバーの自家用車に乗っていたり、家族は夫婦と子供2~3人の世帯。なんなんだろうか、ここに列挙するようなパターンって、どっから来てるんやろ。そこに写真という代物は介在していないのだろうか。

今どきの私たちの生活様式は、かってのホームドラマ的、アメリカ式であったり、ヨーロッパ式であったり、その複合のなかで生活を作っているように思います。かって1950年代、国の成長していく目標のイメージは、アメリカの中産階級の生活様式ではなかったか。ホームドラマってのがあって、家族の絆みたいななかみがあって、そこにはテレビ、洗濯機、冷蔵庫、家族、家庭、お父さんは外で働き、お母さんは家で子育て、こんな核家族というイメージをつくりあげるための後押しを、雑誌やポスターや新聞とかで、やってきたのではなかったか。

そういう、第二次世界大戦後に培ってきた生活イメージが、崩れてきて、新しい形の生活イメージが、現われてきて、この新しい生活イメージをして、へんな感じ、と思うのではないか。さて、へんな感じとはいいながら、へんでない感じの生活を見つめ直して、ほんとにへんでなかったか、なんて検証することも必要なのではないか、と思う。ここは写真ノートの枠組みで、写真の在り方、このへんな感じを現わすドキュメントが、いま求める写真の質なのかも知れません。

ドキュメントの現在は、カメラ目線は自分に即して、自分を通して社会の有り様を定着させていくことではないか。このような仮説を立てて、被写体は何にするか、何に向けるか、これを自分ながらに明確にしていかなければならないと思う。ぼくなんかは、もう高齢者の部類だから、高齢者なりにみずみずしい写真を撮って、呈示していきたいと思うところです。さて、そこで、何を、撮るのか。生命を維持するための基本の領域で、食べ物を、人間を、撮る。そうゆうことでしょうかね。

-17- 20130901
ぼくの「大阪」イメージは、かなり泥臭い、生活の匂いがするイメージだと思っています。かって大阪の街を徘徊して写真を撮っていた1978年、まだ釜ヶ崎へ這入っていくまえの、1年ほどの間、大阪「街」をテーマにして写真を撮っていたんです。最近、このとき撮っていたモノクロフィルムをスキャンして、デジタルデーターにして、ブログにて発表しだして、そのイメージを自分で詮索しているところなんです。

泥臭いといえば、泥臭いものが好き、食べ物だって、川魚で泥臭くて食べられないという話を聞くけど、ぼくはその泥臭さってものが、好きなんですね。そんなに食べるのに抵抗するなんてなくて、食べたいです。人間だって、どっちかいえば泥臭い生き方イメージのほうが、興味の対象ですかね。ぼく自身が育った地域と環境が、おおいに関係していると思っているんですけど、ええ、ぼくは京都市内生まれですが、京都とはまた違った泥臭さを、大阪には感じます。

泥臭さなんていえば失礼になるから、たとえば、織田作の小説の世界とか、開高健の初期小説の世界とか、そんな小説からのイメージで、勝手に自分で作りあげた世界なのかも知れないけれど、そうですね、ダサ臭い、ダダイズムじゃないけど、ダサい、ですね。自分でセンスがいいなんて毛頭思っていなくて、なににつけてもかっこよくない、泥臭い、そんなイメージですかね。

当然、写真にするイメージにしても、興味ある対象に向かって、シャッターを切るわけで、ぼくの大阪にしても、スキャンして、全てを採用するかといえば、それなりに10%ほどしか採用しないわけで、ブログとかに使うイメージは、そのなかの一部なんですが、そのイメージのタブローが、泥臭い、ダサいのが選ばれていると思うんです。なんなのでしょうね、カメラを持って被写体と向きあうんですけど、その向きあう相手との相性っていえばいいのか、なぜ、それを、自分が撮るのか、そのことを考えるわけです。

考えていても撮れないから、結局、撮りに行って、撮ってきたモノのなかから選んで、っていうプロセスが、自分という人格にかかわっている、そのように思えます。ひところといっても数年前、京都を取材していたんですけど、撮って撮って撮りまくった、といっても年に5万カット位ですけど、デジタルだからランニングコストがいらないから、撮りまくって、ブログに載せたりアルバムに載せたり。寡作じゃなくて豊饒系です。西鶴を想いながら、写真をとっていたわけで、京都風土記なんて108×108枚だから、一万枚以上を発表したことになる。

撮って撮って撮りまくって、といったって限界があるわけで、数が多ければよいというのではないけれど、それなりに方法論として、いけるんじゃないかと思う。9月にはいって写真を撮ってない。ちょっと休憩といったところで、毎日写真を撮らないと、という強迫観念からは逃れられたところです。さて、そこで、この次は、なにを撮ろうかと、思うところですが、新しいアイデアが生じてこない。アイデアがあっても体力的にとか考えると、実行できない。気力と体力とが並走しないと、写真は写せませんね。

-18- 20131016
写真学校で写真を学ぶ人たちの数が少なくなっているように思えます。写真を学ぶ学校といえば、大学の写真学科、写真専門学校、学校法人ではないが、写真学校。このようなシステムがあるけれど、大学の写真を志望する学生が減っているといいます。少子化の影響ということもあると思うけど、どうもそれだけではないようです。

カメラを扱って画像をつくる、技術サポートの学び場は、盛況のように見受けられます。ヤングもシニアも、カメラ教室で学ぶ数が増えている。だから、カメラ人口が増えただけ、学ぶ人も増えてる、と考えればいいと思う、にもかかわらず、専門教育レベルで学ぼうとする人が少なくなっている。統計をとって、そのデーターを基にしているわけではないから、感覚的ですが、そのように思っています。

カメラが一般的になりすぎて、学ぶべき対象からはずれてきている。学ぶべきは、もっと実利的なところで、お金を使う。たとえばデザイン学校、料理学校、理容美容学校・・・・、仕事につながっていく学校へ、というところでしょうか。京都写真学校を主宰しているんですけど、問い合わせが少ない。別の枠組みにも入学者が少ない。つまり、本格的に学ぼうとする人が少ない。

やっぱり婚活、就活、それにつながっていくフレームでないと、若い人は振り向かない。そうかも知れない。かってあった議論をベースに、なんていっても時代が違うから、別の角度から写真表現を見ないといけない。その別の角度が、見えないわけです。京都写真学校が来年4月で開校10年になる。ハード環境が変化してるし、それにあわせてカリキュラムも変更してきたつもりだけれど、たぶん合っていないのだと思う。

京都写真学校が10周年、それなりに成果をあげてきたとは思うが、いまひとつ、パッとしない。なにがパッとしないのかといえば、写真についての議論が起こらない。こう思うのは、そういう時代を過ごしてきた人がそう思っているわけで、写真なんて、議論するほどの代物ではないよ、と言われているのかも知れない。だれでも使いこなせるんだから、初級のパソコン教室レベルで、操作方法を伝授するだけで、いいのかも知れない。でも、そうは思えないから、イライラしてしまうのかも知れない。ここにこうして書いているのも、愚痴めいたことにしか過ぎない。

-19- 20131018
写真というものについて、ああでもないこうでもないと、わかったようなわからないような言説をつなげて、なんとか写真の中味を理解しようと努めているわけです。でも、今の時代、そんなことは時代遅れ、しょせん伝達のためのツールですよ、といわれておしまいって感じです。写真ってのは、その制作の技術プロセスのことに踏みとどまらないと、写真から外れてしまう。なので今日は、制作技術プロセスから、以前とこれからを二分しようと思うわけです。

デジタルと非デジタル、こういう分け方はいかがかと思うわけです。デジタルカメラで撮ったデーターをパソコンで処理して、プリンターに出す、ネットに乗せる、いずれも目に見える姿にしてあげるわけです。そうそう、オリジナルプリントっていう作品概念があるじゃないですか。このオリジナルプリントの定義は、今ならどうなのでしょうか。かっては、オリジナルプリントといえば、フィルムを使って、印画紙を使って、現像プロセスを踏んで、写真としての紙にのせられたイメージがそれでした。いまはデジタルカメラで、プリンターで印刷して、これでオリジナルプリントと言ってるのでしょうか。

いやはやデジタル写真になって、かってあったオリジナルプリントという概念が変わってきたとでもいうのでしょうか。もし、あるとすれば、デジタルでない手法を使って制作された写真。これがオリジナルプリントでしょうね。非デジタル写真、フィルムと印画紙を薬品処理して作る写真の総称、とでもすればいいんじゃないでしょうか。非デジタル写真は、手作り写真、古典技法と呼ばれている技法を含めます。銀塩写真(既存のフィルムを使った写真)と非銀塩写真(薬剤を調合して作る写真)という分け方もありましたが、これらも含め非デジタル写真。

でも現実をみてると、けっこうデジタル写真と非デジタル写真はシームレスな関係です。相互乗り入れといえばいいのか、フィルムで撮ってもデジタルにスキャンされてプリントされる。デジタルが非デジタルのプロセスを使うことはなくて、非デジタルがデジタルのプロセスを使う。手作り写真といっても、完全手作りから部分手作り、一部デジタル処理をして、作品に仕上げる。なにか込み入った話ですが、来年以降の京都写真学校のカリキュラムの中味を考えているなかで、名称問題が出てきたというところです。

-20- 20131021
写真を音楽とか文学とかのように区分するとしたら、どうゆうことになるのだろうか、なんて考えていて、ちよっと考察してみます。というのも、写真学校の基礎となる写真が、音楽とか文学とかのレベルでみていたいから。そこから、写真を撮って作品にするということの仕組みが、解き明かされてくるのではないか、と考えるからです。音楽の基本は音の連なり、この音は西洋音楽の場合、周波数による音階にしたがって音程が決まります。この組み合わせで、音は単独で、また和音が構成されて、楽節になり楽曲になっていくと思うんです。文学、小説とか詩の場合、言葉あるいは文字のかたまりで単語となったものを組み合わせて、文章にしていくんだと思うんです。そういうことでゆうと、写真はカメラの外にある像、イメージをつかんで、定着させるということになります。

像、イメージ、目で見る風景、目で見るモノ、物体の集積した形をカメラという道具を使って、定着させる。これは、音楽における単体の音、音符になる一つの音そのもの、文学、小説や詩における単語となるもの、意味を持たせられる最少単位、単語です。写真は、この単位に匹敵すると思うところから、論をすすめたい。音の連なりになるまえの音、意味の最小単位になる単語、写真はそれだけでは、音や単語と同じレベルの素材でしょう。でも、よくよく考えてみると、素材であると同時に完成品、楽曲や小説一遍と同様な完成品でもあろうとするわけでしょう。いやはや、そうではなくて、すでに撮られたときから完成品なのかも知れない。

写真は静止画で、動画につながり、映画につながっていくんですが、動画・映画のイメージ部分を担う基礎素材です。この基礎素材そのものを、それだけを扱って、作品とするんです。ここで類似のものをあげれば、絵画、一枚の絵、ということになります。写真の発明は、絵画を自動的に描く道具、カメラに装填する感材の発明に拠ったわけです。写真と絵画、密接な関係は、静止画、その静止画に定着されているイメージが、基本的に、絵画は手わざ、写真はカメラ操作、この違いによります。さて、ここからの出発、写真とは何か、その基礎概念のところです。写真は、静止画、絵画も静止画、写真は、文学でいうなら単語、音楽でいうなら音符。

イメージ(像)とでもいえばよろしいか、絵画、写真、静止画をそれ以上分割しないで、一枚の絵画と同等、文章の単語もしくは文節と同等、目で見た時にその全体が見えるイメージ(像)です。音楽といい、文学といい、イメージ(像)といい、すべて人間が介在した結果として表出しているものです。音楽は聴覚、絵画や写真は視覚、文学は理解。それぞれに、人間の介在なくしては存在しないものです。その介在の仕方、関係の結び方とでもいえばよろしいか、ここのところですね。イメージ(像)は、特定の方法によって組み立てられたものです。音楽や文学や絵画と同様、写真イメージは、人間によって組み立てられた結果として表出してきたものであるはずです。