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最新更新日 2014.3.4
中川繁夫の書簡集 2001~
中川繁夫:著


中川繁夫の書簡集


    

書簡006 shigeo nakagawa 2001.10.6~
写真への手紙・覚書
記憶・メモリアム<イメージ発生論>


-1-

一昨日の夜、ショパンの「別れのワルツ」を聴きました。セレナーゼを想起させるような柔らかいピアノの音が、ちょっと寂しげに流れてきました。ショパンのワルツ集の第9番に「別れのワルツ」と題されていました。華麗なる円舞曲や子犬のワルツの名前もありました。これまでショパンのワルツというのは、どちらかと云うと明るいイメージがありましたが、かならずしもそうではないように思いました。

金沢の家にて夜9時ごろになっていた時間、交わりをおえたあと、チャイコフスキーの交響曲第4番を聴きはじめました。この4番はファンファーレから始まる曲で、最初5番をかけたのですが、それは違っていて4番にかけなおしたのでした。この10年以上も前から、オーケストラの音として交響曲を聴くには、気分的に重すぎて、ほとんど聴くことはなかったのですが、かっての記憶のなかで、なつかしい想いをよみがえさせる音楽として、この1年ほど折にふれては聴くようになりました。

主に金沢の家の夜に聴くことがありました。高校生のいつ頃だったかこの曲のLPレコードをバーゲンで買ってきました。すでにカラヤンが指揮する第6番「悲愴」は手に入れていましたし、何度も何度も聴きましたので、細部にいたるまで、フレーズを聞いただけでよみがえるものがありますが、この4番も、何度も聴いた記憶があります。

何もしたくない日々、怠惰な日々、虚無と倦怠という観念的なフレーズが呪文のように聞こえていた日々、チャイコフスキーの澄み切った、そして悲しみの町に住みつくようなイメージの音楽として、感性のなかにとらえていたように思います。

今年だったか昨年だったか手に入れたCDは、カラヤンが指揮する第4番から第6番までの3枚でした。それぞれにバレー組曲がついていて、第4番には白鳥の湖がついていました。一昨夜はこれを聴きました。そのあとハンガリー舞曲を聴きたいという欲求にかられて、第五番、第六番と連続して聴きました。その間にショパンのワルツ集があったはずだと思い探してみると、アシュケナージの演奏でマズルカ集やエチュード集とともに、ワルツ全集がありました。

目次を見てみるとありました。第9番に「別れのワルツ」と表題されていました。ハンガリ-舞曲は2曲で止めて、ワルツを聴きました。第9番から聴きました。共有する曲、「別れのワルツ」は優しくてちょっと悲しげな音の連なりのように思いました。ワルツは華やかなダンスの音楽というイメージがあったのでしょうか、中学生の音楽鑑賞の入り口では、ヨハン・シュトラウスの曲を聴いたものでしたが、それ以上に深く侵入していくことは、ありませんでした。

チャイコフスキーの交響曲愛四番を聴いて、ぼくの浪人時代のことの記憶がよみがえってきたのでした。その数年後に妻となる人との、一日の記憶がその曲をめぐって、よみがえってきたのです。二条通りを岡崎公園にいく疎水の手前に、シンフォニーというクラシック専門の喫茶店がありました。そこへ何度もクラシックを聴きにいきました。彼女は大学二年生になっていましたし、ぼくは浪人生ということで、ちょっと中だるみ時期というより先の展望がひらかなかった時期とでもいえばよいのでしょうか。

そのときに第四番を聴きたいと思ってリクエストしたのですが、第三番とリクエストしていて、聴けなかったのです。そういうことの記憶がよみがえってくると同時に、そのときの感情といったものが一緒にみがえってきます。すでにみがえってきた感情というのは、現在のぼくが推測する思い出しでありますが、その当時のぼくたちの関係のありかたそのものを含め、その先どうなっていくのか少し不安で、少しいらだった気持ちで、一緒にいることで救われるなにかがありました。

そのような思い出が第四番を聴いているとよみがえってきました。白鳥の湖は、中学生のころ、初恋の淡い記憶やブラスバンドクラブに熱中していた記憶がよみがえってきました。あのひとは今どこでなにをしているのだろうか・・・・。「別れのワルツ」の話題は1ヶ月前のことでした。ぼくは「別れの曲」の間違いではないかと聞きましたが、そうではないという返事でした。その興味も含め「別れのワルツ」を見つけたとき、どういうイメージの音だろうかと気になりました。

早速、聴きました。やわらかいショパンの音でした。その次の連想は「別れ」という言葉がもつ意味合いでした。あらためていまぼくがいる場所と、あなたがいまいる場所が、どういう場所なのかということを考えはじめました。いつかはそのときが来るのでしょうか。それはいつ来るのでしょうか。これから先の時間に向けて、それらはすべて未知の時間です。しかしそれはたぶん確実にやってくるのではないかと予測したとき、ぼくはどうしたらよいのかと、うろたえてしまうだろうと思いました。悲しい出来事がいつかは来るのではないかという戦慄です。

-2-

K市の郊外の山間の土地にぼくの家があります。通称K町の家と呼んでいます。この土地には二人が生活するための小さな家があります。140坪の土地に約30坪の建物です。1階が50平米のワンルーム、2階に書斎と和室があります。1994年の夏に建てたセキスイハウスの家です。いまは別荘として、月に二回ほど京都からそこへ一泊二日でいきます。

ぼくたちが手に入れた生涯の老いた後の生活の拠点にしようとの思いで、母親が亡くなった年に土地を手に入れ、それから4年後、公務員を退職するにあたって建築したものです。それから、かれこれ7年がたちました。昨年の秋には柿が実をつけ、今年には栗が実をつけました。7年前には、ぼくたちの来たりくる老いの時間において、この自然に囲まれた場所を、生活の最終拠点にしようという夫婦の思い入れがそこにはありました。

ちょっとした高台にあるその土地は、春夏秋冬、四季折々に花が咲きます。うぐいすの声が聞こえます。野鳥たちが通りすぎていきます。この10年間に周辺環境は変化しました。道路が出来て橋が架け替えられ、水銀灯が夜を明るくしました。向こうの山が開発されて医療ホームができました。このように刻々と環境が変化しながらも、自然の姿が残されています。

自然という概念は、人間の手が入れられていない原野を想定するとすれば、すでにことごとく人間によって改良された場所ではありますが、自然らしい風貌は残されていると云えるでしょう。このような場所を確保したぼくたちにとっては、そこに移り住む時期が何時なのかということに、予定を組みはじめました。

ぼくの生について、これまでに生きてきたことの認定は、苦の連続だったというように思っています。生活のレベルにおいての生き方は、それなりに維持してきましたし社会的責任というレベルでの認定は、遜色なく過ごしてきたと思っています。破綻もなく、所持品も一般生活者のレベルにおいては、それはそれなりに満たしていると思われます。現在において別荘ライフを楽しむという楽しみ方は、ちょっと贅沢な部類に属していることと思います。

しかし、そういうことではなくて、人が精神生活において、十分に満足を得てきたかという命題を突きつけたとき、そこには人間としての苦の連続だった。生きられた時間が十分に楽しいものではなかった、と認定してしまうのです。さてこれからの、精神生活と感性のレベルにおいて、どのように充実させて生を享受していくのか、ということが問題なのです。

しかし、ここまで、来てしまった、という感覚。しかし、まだ、ある、という感覚。そのふたつの感覚が、相互に入り繰りながら、これから先の年月と時間を、どのように組んでいくのかということを、考えているのだと思います。

-3-

そういった年月を重ねてきた日々のあるとき、ぼくの内部に異変がおこったのです。新しい未来に向けて、何かを創りだそうという活力です。もう忘れかけていたこととして、前へ向けてコマを進めるということ。現状の不満足に対して、どのように充足を求めるのかという、基本的命題に向かって、再度、挑戦していくこと。

新たな時代が、目の前にやってきているのに、何もしないで次の世代に責任が果たせるのか、というような、人間の存在の仕方そのものに対する、ぼく自身の問題のつきつめかた、とでも云えばよいのでしょうか。

記憶について、その記憶の光景にたいして、湧き起ってくる感情といったもののレベルについて、ぼくはこの二年間に本を読むという経験をつうじて、感じてきた領域があります。人間が存在することの意味について、あるいは人間について、考えてきたなかで、その存在自体が自然物としての構成を根底に持ってる、ということへの認識があったのです。

生物としての人そのものです。そして自然界という世界にたいして、自分のありかたを考えてみました。感情とは何か、ということと自分の感性が何に感じるのかというようなこと。そして自然との共生ということなど、ぼくの思いは様々な方向に展開していきました。

ぼくの記憶と、あなたの記憶が、出会う場所という処があるのだとすれば、その場所の生成は、偶然のなかに生成されたというべきでしょうか。その場所を共有するためには、ぼくの記憶の向かい方と、あなたの記憶の向かい方、へのベクトルがよく似た方向に向いていた、あるいは向いてしまった、といえるのかも知れません。

人間の関係のあり方ということを考察していくなかで、ぼくなりに明らかになってきたことは、記憶の共有と感情の共有ということでした。そのきっかけに、写真というものが介在するのではないか、という仮説をたてました。

これは写真という限定ではなくてもよくて、何か介在するのもがある。音楽でもよくて、文学作品でもよくて、で、何か触媒をはたすものがあって、個別の記憶が融合していくというものです。

たとえば宗教という枠があり、そのイメージのなかで共有するものがあるかも知れないと思います。また何かのきっかけで共同して仕事をしていくなかで、共有できる記憶があって癒合していく、ということがあるかも知れないと思います。

ぼくたちの物語は、何を共有するところから始まったのでしょうか。最初に時間を共有していったなかで、何か感じあい通じあうものがあったのでしょうか。イメージ発生論と仮に名づけた枠組みの、新しい論を展開していくためには、これまであった方法では、論及できない質のものとして、あるのだろうと思います。

すでに人間存在を超えたところの身体の生成の仕方から、記憶の生成と変容、およびそこに立ち現われる感性という全体を、把握していくことからそれは始まるのではないかと思います。

それらの関係が、既成の枠組みから解放されていくとき、そこには新しい関係が立ち昇ってくると思われます。イメージ発生は、記憶の像と感情が、伴なってくるもの一対となった関係と、いえるのかも知れないと思います。