ご案内です
HOME
むくむくアーカイブス

物語&評論ページ

書簡002

収穫・共同生活体

神話的物語-1-

神話的物語-2-

宇宙と身体感覚論-1-

宇宙と身体感覚論-2-

絵画・音楽・19世紀末

ハンス・ベルメール論

カオスと秩序

記憶・メモリアム

生きることの希望について

これからの生き方の模索

ミクロとマクロ



むくむくアーカイブス

最新更新日 2014.3.4
中川繁夫の書簡集 2001~
中川繁夫:著


中川繁夫の書簡集

    

書簡005 shigeo nakagawa 2001.9.30~
写真への手紙・覚書
カオスと秩序<不思議な時間>


-1-

カオスの縁、秩序の縁、その場所にいること、人間にとっての秩序は、生活レベル、社会活動レベルで、それぞれ枠組みをもっている。意識においても、感情においても、社会的常識、モラル、規範というものに従っている。そういった立場に根ざした関係というのが「秩序」だとすれば、その「秩序」を逸脱する関係、複雑系、上司と部下、男と女、50代と20代の親子など・・・・。

その関係を規定する立場を逸脱して<ある>関係は、いまある規範の中では存在しないもの、非秩序、不秩序、という領域にふみこむようだ。水平関係、非権力関係、その領域は規定のしようがないカオス世界にふみこむ。しかし意識は秩序の側に置いてあり、その秩序があるにもかかわらず、心が通いあう、共有する、一緒にいることが全てを忘れさせる、というように秩序とカオスの間を行き来する。これがなずけようのない世界、感覚の世界・・・・。

不思議な世界、不思議な時間、という表現になるのでしょうか。意味の組み直しが必要であり、これまでの枠では語られない想像力の世界、そういう体験があります。外側に出てくる言葉、その背景のイメージ、そして動かされる感情、そういった領域を想定してお互いに共通しているように感じあうもの、無意識の深いところで動かされるもの、その混沌とした感情というもの・・・・。

言葉化できない疼きのようなもの、感動詞のようなもの、そこでは既成の時間軸、関係軸では解釈できないエネルギーの存在を感じる。これまであえて言葉で枠づけるなら<愛>というイメージなのかも知れない。おたがい<尊敬>し<見つめあう>ということかも知れない。なしえてきた業績によって計測する価値ではなくて、どこか深いところで感じあうものが<ある>という感じがある。ベルメールはひとつの表象、シュールリアリズムの作品である。しかし共に傾斜してしまうメンタル、あるいはステーグリッツのオキーフ、など・・・・。

表層にあらわれたものに対するイメージについて、同じように感じてしまう傾向があること、これが言語化できない深層のもの、通いあうものの感触なのである。いったい何なのだろう、カオスと呼ぶしかない時間とその感触・・・・。

-2-

最初に会った日のぼくのおどろき、感動・・・・、それはあなたにも起こったおどろき、感動だった、その関係は秩序の中に収納されて、普通はそれで終わり、たいていは次に偶然に顔を合わすときは、秩序の中でそれらは何もなかったようにふるまってしまう。これが通常というものだ。ところがあなたはその後1年のちに、再度出現した。このこと自体、あなたのカオス部分の成せるわざであろう。そして再開したぼくは、とまどってしまった。

やはり秩序の中で全てを、とらえようとしてしまうからだ。こころが動かされるとしても、それは世の秩序を乱してはいけないという自己規制、分別もあり、戸惑った男の、若い娘一般に向けるまなざし、世間的なあり様での関係といったもの、そのことにぼくは秩序の方をとろうとした。しかしこころは、そのことに納得しなかった。まるでつきものに憑かれたように、こころが動揺した。揺り動かされた。

それは相互作用であっただろうと今では思われる。もうメールなぞが来ないだろうと思っていたが、来た。あなたはメールしないでおこうとは思わなかったようだ。大都会へ行って忘れてしまうことではない。遠くにいてうとくなるというのでもない。それはぼくのメンタルも同じようなものだった。

「写真への手紙・覚書」は、ぼくの気持である。それに反応した、同じだと思った感触、同化する感じ・・・・。ぼくはびっくりした。かよいあう、通じあうkとって・・・・。ぼく自身はほんとうにうろたえた感じであった。七月の中旬に「違うんです」というメールが来て、八月の後半にまでメールは来なかった。もう終わったのだと思った。もう終わることでしか、ぼく自身がやっていけないと思う無難な道、その間にフリースクール構想をまとめた。

前向きに関係を保っていけるフレーム作り。策略。そして三回目に会う日、それもやはり不思議な時間だった、という。来春にはぼくのいる場所へ来ることになるだろう。そこから共に作っていくものは、生きることの満足、充足である。ぼくはやはりカオスの縁で、秩序の中では何か下心がある方法で、援助をおこなおうとしている。そのことが受け入れられるかどうかは、あなたのとらえ方、関係のあり方、信じ方、信頼のありかた・・・・。

新たな地平で、関係をつくりあげていくことが可能かどうか。秩序とカオスの間で揺れ動くだろうカオスの共有は、狂気を生むかもしれない。希望を見出して浄土への感触を得るかもしれない。しかし秩序の共有は、関係を破棄してしまうだろう、と。

-3-

開かれた空間、ひらかれた宇宙。
ぼくたちの存在のあり方を、社会の秩序の枠組みに言葉をゆだねるとしたら、それはとっても滑稽な言葉となってしまうだろうと思われる。しかしこのカオスの縁にいると認知して、そこから関係性をみつめていくことは、おそらく新しいイメージの人間のあり方が浮かんでくるようだ。なによりも来たるべき新しい言葉と新しい感性のために。

ぼくたちの地球世界の構造を大まかに分類してみる。第一に海および大地というものがあり、その上に空気層がある、太陽がある、といった自然としての物質世界がある。第二に<わたし>という自然人としてのひとがある。第三には自然という物質世界を人間が加工した文化の世界がある。

この流れは物質変化の流れである。としてもうひとつの流れが第二の領域、つまりひとの精神の営みのところである。そこには思想と呼ばれる領域、神話の領域、集団規範の領域などが、個別には浮かび上がってくる。

自然はそのまま自然である。そしてひとはまず自然としての人の領域と、言語をもって諸活動をおこなう想像力をもった領域とに、ひとまず分けてみようと思う。もちろん生理的な側面と言語活動の側面が、相互に関連して一個の固体としての人を形成しているとはいえ、おおまかな分け方であるが。人はおおむね第三の文化の世界に住んでいる。

日々生活することは、文化の世界に住んでいることである。そしてわたしの想像力の領域との関係性が、そこの場所で問われるのである。太古の時代、神話の時間においても、すでに神話それ自体を文化と呼ぶべきであるものを持った。

このように区分けをしていくと、自然のままの世界とは、どのような世界として想定すればよいのか。おそらく宇宙空間の全てのものが、わたしの存在以前に、すでにあるもの、そのものである。それぞれのわたしがなければ、この空間の存在認知もないという状態である。

-4-

ひとが内蔵や皮膚の感覚を自然のなかでみつけた頃、これが何万年前なのか、ぼくには知識がないが、その頃。ひとが言葉を組み上げる以前の、身体内から犬がワンというように発生させた音の頃。おそらく朦朧と意識と呼ばれるものが発生してきた、その頃。自然を加工する技を、まだ持たなかった、その頃。

その頃の、ひとのあり方がどのようなものであったかを知ることは、想像力の領域である。その領域をぼくたちは持ってしまった、と認知すること。この頃の記憶が、ぼくたちの身体の奥深くに刻印されているということw、自明の原理として受け入れることにして。

その後、ひとは集団のなかで、あるいは個別に、道具を作りだしてきた。また、食料の加工や保存の技を考案してきた。と同時に文化と呼ばれる世界が形成されてきた。これは明らかに時間は一方向に流れること、過去・現在・未来、の流れの秩序として捉えられる側面であろう。

しかし、ひととひととの関係のあり方を、立体的に捉えてみると、そこにはどのような関係が見出されるのだろうか、ということに興味をもつ。種の保存の本能や、食物を摂取するという本能が、種として形成されてきたときからあるものとして認知すること。この状態が自然の状態であると認定することになる。

ぼくのこの話は、学問的成果の論に準じているとは思うが、それらをぼくのイメージのなかで統合しながら言語化している作業なのであるから、科学的矛盾や論理的矛盾を多くも孕みながらの推論を試みているのであることを、了解点としてもらいたい。とはいえ、ぼくがイメージのうちに想定する、開かれた空間・開かれた宇宙は、カオスの縁に辿りつくための試論となるのだった。

人と人は同化することができるかという命題がある。人とは何かという命題がある。そして生命とは何かという命題。生物としての人間の、種に及ぶイメージの作業を、ぼくは始めていかなければならない、というところに立ち至っているようなのだ。

まだ文化を形成していない状態での人あり方とは、ぼくが想定するところ、感じあう相手が感じあうということ、交感があり、愛撫があり、身体の交わりがあった、と想定するのは早計だろうか。おそらく現代の錯綜した<わたし>ではなく、自然に開かれた身体があったとイメージする。

それはもし、意識としてあったとすれば、自然との一体感ではなかったかと思う。この自然との一体感という感覚を、現代に生きるぼくがイメージする限り、すでに現代の文化のフィルターがかけられているので、同一のものではありえない。