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最新更新日 2014.3.4
中川繁夫の書簡集 2001~
中川繁夫:著


中川繁夫の書簡集


    

書簡007 shigeo nakagawa 2001.10.6~
写真への手紙・覚書
生きることの希望について


-1-

今年の春先、ぼくの感性の内側に、なにか異変が起こったようです。この異変はぼくの生の方向についての、またそのあり方についての変化であると認定しています。この異変の兆候はすでに一年ほど前に、準備されていたとも云えます。すでにもう数年前から、ぼくの生き方そのものについて、ぼくがいる場所について、ぼく自身が疑問を持ち始めていましおた。

この10年間、もっと遡れば生まれたときから、ぼくの生きてきた日々についての認定は、おむね詰まらない損失の時間だったとの判定がありました。人間関係の欠如というか、人間不信というか、現実の生活の側面での人との交わりそのものへの不信感であったように思います。自然の世界とぼくの世界。この関係にのみ執着して、これからの生を営んでいこうと決断していたとき、そうではないよと神がかりのように問いかけてくれたのがKANAだったように思います。いまはあらためて文化の諸相において生きていくことへの勇気を与えてくれたひとと認定しています。

ぼくの生きてきた道筋というものが積み重ねられてきた日、それらの日々への断定は前述したとおりですが、それがぼくのなかでくつがえりはじめました。最初にお会いした日のぼくの状況は、どんなものだったかということと、そこで出会ってしまったあなたの状況が、どんなものだったかということが、それぞれにあって偶然にも出会ってしまった。偶然というよりは必然的な要素をもっていたのでしょう。何か交感するものがあったのだと認定するとしたら、何だったんでしょうね。非常に不思議なめぐり合わせだったように思います。

同じようなメンタルを持っているのでしょうか。あるいは同じ軸のうえに生きてきたのでしょうか。文化の世界に生きる生き方と自分の想像力のはざまで、何かがうまく噛みあっていないような感覚があるのでしょうか。自分の世界というものは、身体的な、つまり自然現象として存在する自分があり、そのベースを共有しながらそれぞれに、想像力を育み、文化と呼ばれる人間のみに与えられた次元の、社会に組み込まれるのだと思うのですが、その組み込まれ方、あるいは組み込まれない抵抗体が、よく似たものとしてあるのかも知れないと思っています。

人間のあり方というか、生活の仕方というのは、スタイルとしては同じようなものですが、気の合う人と会わない人がいると思いますが、よく合う部類にあるのでしょうか。

-2-

前の職での単身赴任2年間、そこには人間の生きる条件としての、ぼくが求めるところの交感というもの、感情のレベルで信頼しあうことの基本がなかった。そこには形骸化した組織と人間不信しか存在しなかったように思えます。湾岸戦争の映像がテレビに映し出されていた記憶、そして雲仙普賢岳の噴火の映像が映し出されていた記憶、その光景がいま思い出されてきますが、それは何の脈絡もなく、また何の感動もなく、それはただ見ていただけでした。この間に爪を噛む癖が直った。自転車で職場までの道程に踏切があった。事故死を夢想していた。二年目の毎朝、気を紛らわすために散歩にでかけていた。線路沿い、朝一番に京都行き特急列車の通過があった。むなしい気落ちを抱えて、それに飛び込む勇気もなく、飛び込む自分を夢想した。

そうして単身赴任から解放されてからの二年間においても、状況は同様であった。確かに業績はあげたとは思うけれど、そのことでの見返りは、ぼくにはどうでもよいことのように思われたのでした。単身赴任の職場を取り仕切っていた時点で、この場所はぼくのいる場所ではないとの断定をしました。その断定にいたる直前には、結構、追い詰められて慟哭の態でありました。閉じられた場所。そこからの脱出、そのことを決意しました。しかし、そのことが実現するまでにはなお二年間の時間の経過が必要でした。そして退職。24年強の公務員生活に終止符を打ちました。

生涯の稼ぎ出す生活資金が何千万円か損失するとしても、そのことはぼくにとって大きな意味は持ちませんでした。むしろ新しい場所の形成をもくろむことの方に、期待をかけました。新しい仕事は、芸術系専門学校の副校長という肩書でした。新しいカリキュラムの実践をもくろんでの赴任でしたが、旧体制に阻まれ、実効はあげられないままに二年間が過ぎました。もちろん、ぼくひとりの力で、動かそうとしたわけではありませんでした。当時、すでに写真図書館を設立していましたし、その館長も兼任でした。自らの意思によりものごとを決めていくというには、そういう形態にはなりませんでした。

生きるということ、生活を営むということ、そのことを放棄することはできない。とすれば日々、黙々と働き続けなければいけない。人間は、そういう宿命を担っているのだと思おうとしました。家計と家族を維持すること、というのは最小の条件としてありました。そのうち阪神淡路大震災が起こりました。ぼくの気持ちは、そんな大きなアクシデントにも、無関心でした。全くの無感動だった記憶、新聞も雑誌も読みませんでした。ただテレビの画面が目の前に流れていました。たくさんの死者が出たことに対しても、無感動の風をよそおった。むしろ自分の身に降りかからなかったことに対して、よかったとでもいった風でした。

-3-

インターメディウムの企画は、ぼくにとっての再起のチャンスと捉えました。企画原案が提出されたのが大震災の後の5月ごろでした。夏の終わりになってようやく企画原案が提示され、開講の準備がすすめられました。具体的に現場でぼくがやるという図式になってきたのがその頃でした。専門学校の2年目で、そこでの展開も限界をきたしていたし、IMI立ち上げをおこなう決心は、ぼくが最終の決断をしたのだと思っています。1月から専任でおこなうことになりました。ぼくは専門学校からの給与、あとのスタッフはアルバイトでの対応でした。

なによりもぼくの原動力となったのは、ぼくの理想を追求する場としての教育の現場が実現する、という感触でした。それに先がける10年前に、京都でフォトハウス設立を呼びかけて実行するまでに至りました。理想的な環境をつくる、ほんの入り口にしかすぎなかったのですが、たまたまIMIと名付けられてしまった枠組みを見たとき、これだと直感しました。三ヶ月の広報で人を集めるのは不可能といわれた周囲の意見に対して、ぼくは「いける」との感触がありました。根拠を尋ねられても、なんとなく直感なんです。ただ普通に専門学校が広報するような方法では、不可能なのです。それも判っていました。

なにが可能にするか、といえばそこに理想と希望がみえるかどうか、ということです。訪ねてきたひと、ひとり一人の現状に対して、どのようにアドバイスしてあげながら、ひとり一人の気持ちのなかに理想と希望をつくってあげることができるか、ということでした。結果として最終の入学者は90人ほどになりました。短期間にこれだけの人数を集めたのは、成功の兆しでした。これまでになかった学校をつくろう。理想の学校をつくろう。理想の学校とはどんなものだろう。確かに1919年、ワイマールドイツに設立されたバウハウスに模範をとって、現代に生かす学校、とのイメージは、フォトハウスの企画のなかにも参考にした理想でもありましたから、それが基調となりました。

入学式に伊藤俊治氏が挨拶で、バウハウスを引き合いに出しながらIMIを語ったとき、ぼくは背筋がゾクゾクとした昂奮を覚えました。しかし経営的にうまくいったかというと、そうではありませんでした。たいへんな借金経営でした。二年目は経営陣波乱の一年でした。いつクローズしてもおかしくはない状況でした。こういう困難なときには周辺の人たちは引いて責任逃れの道を探します。そのような風景が露骨にみえるなかで三年目の立て直しがはじまりました。二年目の危機的状況を乗り越え、やっていけると見えたとき、そこは権益、手柄を狙う人間の主導権争いのような現場となりました。

ぼくの持っている理想は、十分には言葉化できないものでしたし、現行の社会構造の中で生きてきた人にとっては、実利的な側面しか見えてこないのでしょう。巷にある利潤追求の教育産業に組み入れられてしまう枠組みが、実効されていったのです。ぼくは静観するしか方法がありませんでした。一応、食っていけるだけの手当ては確保できましたから、それに甘んじようと静観していました。馬耳東風・・・・、しかし直接にぼくの立場を拉致する勢力の力も強くなってきました。目のうえのたんこぶ、とでも云えばよいのでしょうか。ぼくの存在がうとましくなってきたのでしょう。直接、間接に攻撃がありました。人間の醜さ、ずるさ、駆け引き、権力構造そのもの、欲の皮が張ってしまった人々。

けっきょく人間の集団は欲のかたまり、権力のかたまり、強い者が勝つ、資本主義の論理そのもの、それがぼくのいる場となってきました。もう終わりだな、という気持ちもありました。根競べというところでしょう。その背景には、経営陣はぼくを評価していました、ぼくの役割、ポジション、その複雑なポジションに必要なのが、理想があってなお、全てを呑みこむ人間としてのぼくの存在、という評価に唯一のよりどころがありました。

-4-

ぼくの人生において、ぼくの生きてきた自分のあり方として、あまり明るくは捉えられていないと思います。いつも何かに追いかけられながら、精神の苦痛を抱いてきたと思わざるをえないような確定をしてしまいます。KANAがいろいろな意味合いで不器用だと自認していることについて、その通りだと思います。ぼくにおいても、いつも生き方に対して不器用だと思っていますから、きっと共通感覚なのでしょうね。

この不器用さというのは、自分の外部との交わり方のところかなと思っています。誰とでも気さくに交流できるとか、興味のもてないものに対しては冷淡であるとか、ここでゴマすりすれば、相手がお世辞でも喜ぶのにできない、とかがぼくが自分で思うところのものです。逆に、ある領域には普通以上に、突っ込んでしまうところがある。のめり込んでいくということです。

感覚的にもよく似たところがあるのでしょうか。ベルメールの作品について、なにか惹かれるものがある。マリオの写真について、惹かれるものがある。そういったメンタルの部分を共有してしまうのも、共通しているようですね。それだけではなく、身体感覚そのものが似かよっているのではないかと思ってしまいます。

あなたが不思議な時間と思う感覚は、ぼくにも同じです。なんだか時間の流れがあるのかないのか判らないような時間、たしかに、このまえお会いしたときは午前11時から三度場所を移動して7時までという物理的な時間でした。しかし、そうゆうことではなくて、と考えたとき、ぼくたちの時間というのは、カオスなのではないか、ともイメージしてしまいます。

時間軸にそって時間は、流れていないように思っています。内側の感覚の時間ではです。なによりも生きることの希望が湧いてくることです。ぼくには「生きる」ことへの希望を与えてくれるひと、との認定があります。言葉ではうまく言い表せない何かがあるのです。生きることを共有しているという、感覚なのかも知れないな。

感謝の気持ちというのがありますが、なにかそのような気持ちにさせられてしまうのです。本当の生き方とは、どんな生き方なのかな、と考えているぼくのそばにあなたがいるような気がして、ぼくが自分にできなかったことを、やってもらいたいとの希望が湧いてきました。ぼくが30年かかって出来たことを10年でやってほしいと思っています。

そのためには、生きることの、自分なりの原理を、つかんでほしいと思っています。生きることの価値といえば、よいのでしょうか。当面の生活をどのようにつくっていくのか。自立するまでには、もう少し時間が必要となります。それまでの間は孵化器のなかでの生活トレーニング。戦略的に生きるためにも応援すること。これがぼくに与えられた役割なのだろうと思っています。