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最新更新日 2014.5.14
中川繁夫の書簡集 2001~
中川繁夫:著


中川繁夫の書簡集


    

書簡008 shigeo nakagawa 2001.9.24~
写真への手紙・覚書
<これからの生きかたの模索>

-1-

戦争、グローバリズム、ローカリズム、自然と共生、宗教、魂、宇宙的発想。

昨夜、久しぶりにグールドが弾く第29番を聴きました。というのも日本時間9月11日の夜に勃発したニューヨークの世界貿易センターと米国国防総省への旅客機激突事件のあと、ぼくの興味がそのことの意味を探る思索へと傾斜してしまったことでした。こうして概略として全体像が見えてきたように思ったところで、あらためて第29番を聴いてみようとの思いになりました。

まず、今回の戦争ごっこの捉え方ですが、ぼくはいくつかの視点からみて、今後20年から30年という時間をかけて、世界が一つの体系に融合していくのだろうと思っています。その融合していく結果の形がどういうものになっていくかのイメージは、まだ明確にはなっていませんが、おぼろげながらイメージ化できるように思います。

現時点ではまだアメリカとその同調国の連合(グローバル化に波長を合わせる勢力)は武力行使に出てはいません。できれば武力の行使は避けてほしいと思いますが、たぶんそれは難しいと思います。現在の文明の過程において、最後の戦争としてイメージしていますが、グローバル化が八割り方進展したように見えるこちら側(つまりアメリカが自由主義国と言っている側)の論理に、平和的解決という手法は、まやかしに過ぎないと思うからです。

強い者が強い理由は、人間に脅威を与える武器を持っていること(逆に弱い者は武器を持たされない)そのことによって人間を支配すること。あるいは自分の富への執拗な意志を通すこと、そのことによって権力構造を維持すること。そのような文明内部での価値観が存在する限り、グローバル化を阻止する勢力に対する殲滅は、いまちょうど時期として熟したのだと理解します。「正義の戦い」というキャピタリズムの正当性と「聖なる戦い」というイスラム原理の正当性が、融合していくときが開始されたのだと思っています。

キリスト教や仏教がすでに体制内化してしまった(とぼくは思っているぼくらの世界)現状において唯一イスラムの抵抗は、ひよっとしたら人間の本来あるべく姿を求めているようにも感じられますが、ぼくにはその思想体系とそこに存する感性はわからないのです。率直にいってぼくの知っている知識は、単なる知識に過ぎなく、そのレベルでその内部のことを感情的に類推するしか手段はないのですが、未知の領域を確認するためにも知識の領域を羅列する必要があるように思っています。

-2-

政治の領域は硬直のシステムだと思います。いま人間が求めているのは柔らかい構造のシステムだとすれば、硬直した構造をどのようにしてリストラするか、再構築ですよね、まさに、そのことをどのように実現するのかのプロセスが求められているのだと思います。ふっとぼくの意識によみがえってくる光景があります。写真への手紙のなかの一節「谷間の風(シュールリアリストの死)」のなかの一節。

-ちょっと高台になった山あいのその土地は、私とあなたが手にいれた最初の楽園となるだろう。抑圧もタブーもない土そのものと、そこに根ざした植物群。(中略)私は視る。この高台の土地に生成する全てのものと私の内部を・・・・。視ることの自由を得た私は視るものひとつひとつが、かって現れたことのない新たな意味を持ち、私の知覚に迫ってくるのだった。-

なぜ、この手紙を書いている途中に、この光景がよみがえってきたのだろうかと思う。-恍惚感覚(エクスタシー)を得ること。視ることの自由とは体制内からの離脱を意味する。-今後、文明が融合していく先のイメージなのかも知れないと思う。そうするといまぼくが視なければならない視点は、体制内から離脱することといえるのでしょう。どのように見ていけばよいのかなと思います。

そのとっかかりは、記録の光景としてテレビに映し出されたカブールの町の生活風景が生々しくよみがえってきます。荷車を引いている生活者の荷物は赤い果物。画面を一瞬にして通り過ぎていく光景が、ぼくのこころを揺さぶりました。ニューヨークの光景とはとてつもなく違う光景がそこにはありました。荷車とそこに積み込まれた赤い果物のほかには何も持っていないような生活者。ぼくの思いはかってあったぼく自身のいた光景にリンクしていくのでした。

ぼくのこのときに発生した気持ちをどのように処理したらいいのかわからない状態です。世の中の全ては分類できる文脈あるいは文節によって成立する、と考えていたぼくの昔なら別ですが、すでにそのことを解体させてしまっているぼくとしては、どのように表現すればよいのか困ってしまいます。しかしあえてそのことを表出していかなければならないとしたら、そこに比較の論を存在させることと、そこからぼく自身のあり方を模索するしかないのでしょう。

-3-

生活者の視点について考えてみます。日々衣食住を満たすことが生活の基本的条件としたときに、この基本的条件が全てのひとに満たされているといえるでしょうか。これは全世界に向けて問うものです。たしかに様々な階層があり、世の中一般が「世の中」というときには、この基本的条件が満たされているひとを対象としているように、見受けられます。しかし、ひととして全てのひとを対象としたとき、明らかにその視点が危うくなってしまうのではないでしょうか。このことを視野に置かない視点というのは、実に人間の傲慢さではないかと思うのです。

あるいは生活の基本的条件以上の生活を持つひとの論理における「世の中」から見て、それ以外のレベルのひとたちの抑圧された状況を理解しようとしますか。現実にはほとんど見ようともしないのではないですか。あらゆる情報の手段が、その問題にふれないで蓋をする。その問題の一部が見えかけたとき、そのことを封じ込めようとする。あらゆる手段を使って、それはなされうるのです。異端視する。文明の敵だ、との世論を作ろうとする。本当は内在化しているにもかかわらず、あたかも外部からの侵入であるかのように振る舞うこと。害虫駆除の要領で撲滅させる。

富も権力も一極集中するグローバリゼーションが時代の流れだと認知するのは、避けえない流れであると認知しても、そのことが人々を幸福の楽園へ連れて行ってくれるかどうかはわからない。この富と権力は、国家というシステムのなかでの個人において享受されるということが最終のところだ。とすれば、人間がひととして生存する基本的条件が満たされていないひとがいるという事実がある限り、解決は、しないのではないでしょうか。

ちょっと政治的な領域に入り込んでしまったようです。しかし、これらのことを見ることを避けて通るかどうかによって、生命のあり方そのものの捉え方にも反映してくるものと思われます。自分の感知する領域の、どこにヘッジを置くかということだと思います。ですから、次に来る文明を想像するときには、そのことが解消していることが、連想されなければならないと思います。

宗教の領域を越えて、もちろん政治経済の領域を越えて、根本に人間の存在、動物の存在、植物の存在、あるいは空気といったものも含めて、それらの領域を越えて、ひとのあり方がどうあるべきなのかということを、見据えなければならないように思います。あるいは声明の共存というレベルにおいて、人間の存在を優先するという立場に立ったとしても、基本的条件の満たされることが必要であると思うのです。

-4-

近況報告

その後のわたしの革命ノートは、折にふれ思いの断片をメモ化しています。最近にはトランスパーソナルの内容に少しではありますが、その方向、領域、流れが少しはわかってきたように思います。けっこう熱中して読みました。そして自己超越のサイクルと人間存在の把握の仕方が、スピリッツや魂という領域で、不可視の領域でイメージすることや、宇宙全体なかの出来事としてのわたしの存在の仕方というように、現実に目に見える領域の事実しか信じない考えに穴があいた感じ。

これまで、こちら側からの一方的な見方に固守していたわたしのイメージそのものが、その外側というのかあちら側というのか、全宇宙の物質的営みのなかでの自分の物質的存在とその精神というか、感情というか、深層無意識というか、その領域の存在を認めることにあったと思います。

視座を変える、あるいは座標軸の中心を移動させる、とでも言えばよいのでしょうか。わたしのイメージの縁にあったものの行方が、開けたようですね。かって写真以前の写真論として「私風景論」、「夢幻舞台-あるいはわが風土-」というわたしの文章それ自体が、すでにこの見方に近いところではぐくまれたようにも思えます。

ただ、わたしの固守すべきは「わたしの問題」として実存するわたしを中心に論を組んでいたようでした。その位置からの変移による新たな視座、あるいは座標軸を獲得したといえばいいのでしょうか。そのことを信じようという気持ちが、なにより先に起こってきました。信じるというよりも在るということ、不可視の領域に在るということそれ自体の存在を、認知しようと思いました。

どうもこれまで「こころ」の問題はタブーとしていたわたしがありました。問題は、というより「こころ」という言葉自体へのアレルギーとでもいえばよいでしょうか。10代の後半頃から、その世界は信じないという信念みたいなものがあって、唯物論なんですよね。それに科学の成果をのみ信頼する、といったこと。物質的身体が消滅すれば精神も消滅する。これはいまも思っていることです。

ただ消滅した精神が物質として拡散する。この物質は物質としての質量を持たないのかもしれない物質として、宇宙空間に拡散していくということ、これは事実であろうと思います。また新生児が母体に宿るときから、新生児となって誕生するのは、物質としての元素が、宇宙空間のなかに浮遊している状態から凝集してくるプロセスとしてあることも事実であろうと思います。こうして物質としての身体が形成されると同時に、物質としての精神が形成されるのであろうとも推測します。

こうしてものの見方が変更されることによって、わたし自身のなかにおおきな転換が起こってきました。これまで持て余していたわたしのなかの重圧が、解消していく感覚を得ました。一気に行き詰まり感が解消して、快い開放感に見舞われました。もちろんこの背後には、個別の交感をおこないつつある人との関係が作用していたものと思います。その連想はあたかもあなたの内側と一体化していくような感覚だと思えました。ああ、神との一体感とは、この感覚のより高次のものなのだろうな、という確信みたいなものが湧いてきていました。